2026年4月12日日曜日

越王句踐

史記の各巻をAIに小説風に執筆してもらっていると、とても読み応えがある文章が出来上がったりします。私の使っているプロンプトと原文の相性、そしてAIのその時の気分が融合して結構良いものができたので、披露させてください。越王句踐は昔、中国のドラマを見たことがあり、私にとっては懐かしいものでもあり、感慨深く読んだのでした。「臥薪嘗胆」「呉越同舟」「死者に鞭打つ」「狡兔死して走狗烹らる」という日本人なら誰でも知っているこれらの言葉の由来はここにあります。

余談だが、会稽かいけいという山は、いまの浙江省紹興市の南にそびえている。このあたりの地形は、日本の紀伊半島の山々に似て、鬱蒼とした森林と急峻な谷が入り組んだ、まさに「逃げ込む」にはうってつけの土地である。呉の大軍が押し寄せたとき、えつ句踐こうせんがここに五千の残兵を率いて立て籠もったのも、道理であった。山の斜面を登れば、眼下には広大なの平野が広がり、その先には東シナ海の青がかすむ。だが、そのときの句踐の目には、敵の旌旗の波しか映っていなかったろう。

「吾はここに終わるか」

山頂の岩陰で、句踐はそう呟いた。史料はこの一言を、喟然きぜんとして嘆いた、と記す。絶望の淵に立たされた男の、ごく自然な吐息である。彼の先祖は、かの大禹の末裔だと称する。夏王朝の始祖である。その血を引く者が、山奥に追い詰められ、滅亡の時を数えるとは、なんという皮肉であろうか。しかし、歴史というものは、皮肉と逆説でできている。この絶望が、のちの驚くべき復活劇の、ただ一つの起爆剤となったのである。

側にいた大夫の文種ぶんしょうは、すぐに答えた。

「湯は夏台に繋がれ、文王羑里ゆうりに囚われ、晋の重耳は翟に奔り、斉の小白は莒に奔り、その卒に王霸たり。これよりこれを観るに、何ぞ遽かに福と為らざらんや」

つまり、かつて苦難を味わった偉大な君主たちの例を挙げ、今の苦境こそが将来の栄光の種だ、と励ましたのである。この文種という男、なかなかどうして、現実的な策士であった。彼はこの直後、主君に驚くべき進言をする。それは、現代の感覚でいえば、国家の全面降伏、そして属国化である。

「卑辞厚礼を以てこれを遺わし、許さざれば、身を以てこれと市せん」

「市」とは、取引である。命と引き換えに、国を売る。ここで句踐は、「諾」と一言で答えた。この決断の速さが、この男の本質を物語っている。彼は、プライドなどという虚飾に縛られない、きわめて合理的精神の持ち主であった。あるいは、そうならざるを得なかった。生き延びるためには、どんな恥も飲み干す。それが、こののち二十二年にわたる復讐劇の、最初の、そして最も辛い一歩だった。

さて、話を戻そう。文種は呉に赴き、呉王夫差ごおうふさの前に額を地に擦りつけながら言う。「君王の亡臣句踐、陪臣の種を使わして敢えて下執事に告げしむ。句踐は臣たることを請い、妻は妾たることを請う」。完全な屈服の姿勢である。ところが、ここで事態は急変した。呉の重臣、伍子胥ごししょが強硬に反対するのである。

「天は越を以て呉に賜う。許すなかれ」

天が越を呉に与えたのだから、滅ぼすべきだ、というのである。これは単なる好戦的な意見ではない。伍子胥は、越という国、そして句踐という男の危険性を、鋭く見抜いていた。彼は楚から亡命してきた苦労人であり、復讐という情念が国家をどう動かすかを、骨身に沁みて知っていた。だからこそ、同じ復讐の炎を心に宿す句踐を、この場で消し去らねばならぬ、と直感したのだ。

文種がこの報告をすると、句踐は激昂し、妻子を殺し、宝器を焼き、最後の突撃を敢行しようとした。これが普通の君主の反応であろう。しかし、ここで文種は再び、冷徹な現実主義を発揮する。彼は句踐を制し、こう言うのである。

「夫れ呉の太宰は貪りなり。利を以て誘うべし」

太宰嚭。この人物こそ、呉越の命運を決めた、もう一人のキーパーソンである。彼は、後に越から莫大な賄賂を受け取ることになる。歴史は往々にして、一人の貪欲な男の手によって、大きく舵を切られるものだ。文種は美女と宝器を携え、密かに嚭を訪ね、抱き込むことに成功する。嚭は呉王夫差を説得した。「越は以て服して臣と為る。若し将にこれを赦さば、これ国の利なり」。ここに、国家の大戦略が、一個人の私腹のためだけに捻じ曲げられる瞬間がある。

伍子胥は再び諫める。「今越を滅ぼさざれば、後必ずこれを悔いん。句踐は賢君、種・蠡は良臣、若し国に反らば、将に乱を為さん」。まったくその通りである。だが、夫差は聴かなかった。彼はすでに、中原の覇者となる夢を見始めていた。辺境の越などに拘っている場合ではない、という驕りが、彼の判断を曇らせた。あるいは、降伏してくる敵を寛大に許すという、覇者の風格を示したかったのかもしれない。いずれにせよ、これは致命的な誤算であった。

夫差は越を赦し、兵を引いた。

越王句踐は、かろうじて滅亡を免れた。しかし、彼の受けた屈辱は、計り知れないものがあった。ここから、あの有名な「臥薪嘗胆」の日々が始まるのである。

彼は国に帰ると、すぐに尋常ならざる行動に出た。まず「胆」を室内に吊るし、座るたび寝るたび、それを仰ぎ見、食事の際にもそれを嘗めた。「汝、会稽の恥を忘れたるか」と自らに言い聞かせるためである。これは単なる故事成語として伝わるが、その実態はもっと生々しい。胆とは、おそらく獣の苦い胆嚢であろう。それを舐める苦さが、会稽山での屈辱の味そのものであり、それを忘れまいとする、一種の自己拷問に近い行為だった。

さらに彼は、自ら田を耕し、夫人は自ら機を織った。美食を排し、華美な衣服を着ず、賢者には頭を垂れ、賓客を厚くもてなし、貧しい者を救い、死者を弔った。要するに、君主の威張りを一切捨て去り、民衆と苦楽を共にしようとしたのである。これは、単なるパフォーマンスではなかった。国力を回復し、呉に復讐するためには、国内の結束が何よりも必要だった。彼は、民衆の支持という土台を、自らの汗と謙虚さで固めていった。

余談だが、この「民と苦楽を共にする」という姿勢は、中国史において繰り返し現れる理想君主の条件である。しかし、それが単なるポーズで終わるか、真実の力となるかは、為政者の本気度にかかっている。句踐の場合、それはまぎれもない本気であった。彼の心は、復讐の一念で燃え上がっていた。その炎が、彼のすべての行動を、尋常ならざるものに変えていった。

国政の運営については、彼は二人の天才家臣に任せきった。文種と范蠡はんれいである。范蠡が「兵甲の事は、種は蠡に如かず。国家を塡撫てんぶし、百姓に親附するは、蠡は種に如かず」と言えば、句踐は即座に内政を文種に、外交と軍事を范蠡に委ねる。自分にないものは、持っている者に任せる。これもまた、彼の合理的精神の現れであった。

こうして越は、静かに、しかし確実に力を蓄え始める。一方、呉はどうか。夫差は、赦した越のことなどすっかり忘れたかのように、北へ北へと勢力を拡大していった。斉を討ち、中原の諸侯と会盟する。まさに春秋時代の覇者の道を歩んでいる。しかし、その背後で、一つの禍根がくすぶり続けていた。伍子胥の存在である。

彼は、越の危険性を説き続けた。夫差が斉を討とうとすると、「呉に越有るは、腹心の疾、斉と呉は、疥癬かいせんなり」と、まず越を討つべきだと強く諫めた。腹心の病と、皮膚の軽いかゆみ。この比喩は実に鮮やかである。しかし、勝利に酔い、周囲の歓声に包まれる夫差の耳には、この忠言は煩わしい雑音としか聞こえなかった。

そして、ついに決定的な事件が起きる。越が呉に穀物の貸し付けを申し出たとき、伍子胥は反対したが、夫差はあっさりとそれを許してしまう。この穀物は、実は越が呉の国力を見極めるための「試料」であった。それを許したということは、呉の内政が既に弛緩している証拠だと、文種は看破した。

伍子胥は嘆いた。「王諫を聴かず、後三年にして呉その墟と為らんか」

この預言めいた言葉が、彼の運命を決めた。太宰嚭と、越から抱き込まれていたもう一人の大夫・逢同ほうどうが結託し、伍子胥を讒言ざんげんする。「伍員は貌忠にして実は忍人なり。その父兄顧みず、安んぞ王を顧みんや」。かつて楚への復讐のために、父兄の仇を追って呉に来たことを逆手に取り、家族さえ顧みない冷酷な男が、主君を本当に思うはずがない、というのである。これは、実に巧妙な心理攻撃であった。

夫差の猜疑心に火がついた。そこへ、伍子胥が斉に使者として赴いた際、自分の子を斉の鮑氏ほうしに託したという報告が入る。これが「裏切り」の決定的証拠とみなされた。怒り狂った夫差は、属鏤しょくるの剣を賜い、伍子胥に自決を命じた。

ここで、歴史は劇的な一行を記録している。伍子胥が大笑して言うのである。

「我、而が父をして覇たらしめ、我又た若を立てたり。若は初め呉国の半ばを我に予えんと欲し、我受けず。已に、今若は反って讒を以て我を誅す。嗟乎、嗟乎、一人固より独り立つ能わず」

そして、使者にこう言い残した。「必ず我が眼を取って呉の東門に置き、以て越兵の入るを観よ」

死に臨んでなお、己の正しさを信じ、やがて来る滅亡を予告する。この強烈な個性は、まさに司馬遼太郎が好んで描く「最後の士」の典型である。彼の眼は、果たして東門に晒されただろうか。史料はそれを記さない。だが、彼の死をもって、呉という国の柱は一本、がっくりと折れた。以後、国政は完全に太宰嚭の手に堕ちる。

会稽の恥から、七年。越の国力は着実に回復し、民衆の心は一つにまとまっていた。復讐の機は、熟しつつあった。

「可なり」

范蠡がそう言ったとき、越の宮廷には、長い沈黙が流れた。句踐は、ただじっとこの軍師の顔を見つめていたに違いない。七年どころか、会稽の恥から数えれば、すでに十数年が経過している。その間、彼は胆を嘗め、民と共に汗を流し、耐えに耐えてきた。この一言を待ちわびていたのである。

しかし、范蠡の判断は、単に主君の焦りに応えたものではなかった。彼は、周到な情勢分析の上で、そう言った。呉王夫差が、精鋭をすべて引き連れて北の黄池こうちへと赴き、国内が空虚になっている。しかも、国政を預かる太宰嚭は、越から抱き込まれた男である。これ以上ない好機であった。だが、范蠡はもう一つ、決定的な要素を見逃さなかった。それは、夫差という男の「心理」である。

夫差は今、中原の諸侯と会盟し、周王朝を戴く天下の覇者たらんとしている。その舞台の只中で、本国からの急報が届いたら、彼はどうするか。慌てて帰国すれば、会盟は瓦解し、覇者の顔は丸つぶれだ。かといって無視すれば、国を失う。彼は、この板挟みの中で、苦渋の決断を迫られる。范蠡は、その動揺と混乱を、計算に入れていたのである。

「すなわち習流二千人を発し、教士四万人、君子六千人、諸御千人を以て、呉を伐つ」

史料は淡々と軍勢の内訳を記す。習流とは水軍、教士は訓練された兵士、君子はおそらく近衛の精鋭、諸御は車兵や御者であろう。総勢五万に近い軍勢が、静かに国境を越えた。その動きは、まさに鷙鳥しちょう(猛禽)が獲物を狙うように、迅速かつ沈黙を伴っていた。かつて逢同が言った「鷙鳥の撃つや、必ずその形を匿す」という言葉通りである。

戦いは、ほぼ一方的なものだった。留守を預かる呉の太子は防戦したが、老弱ばかりの軍勢では、鍛え抜かれた越の精兵に敵うはずがない。太子は討ち取られ、呉の都は震撼した。急報は、黄池にいる夫差の下へ、一刻を争って飛んだ。

さて、ここで想像してほしい。現在の河南省封丘県の南あたりとされる黄池の地で、諸侯を前に威風堂々としていた夫差の表情が、一瞬で凍りつく様を。彼はまさに、天下の盟主として周王から認められんとする、その瞬間であった。報告を受けた彼は、おそらく血の気が引いたことだろう。しかし、ここでこの男は、驚くべき決断をする。

「天下のこれを聞くを懼れ、すなわちこれを秘す」

彼は、越の侵攻という衝撃的事実を、諸侯たちに隠したのである。顔色一つ変えず、会盟を強行した。これは、ある意味では凄まじい強がりというか、覇者としてのメンツにこだわる、彼らしい判断だった。しかし、それは同時に、本国の危機に対処する最も貴重な時間を、無駄に費やす結果となった。

会盟をようやく終え、慌てて帰国した夫差の目に映ったのは、荒れ果てた国土と、疲弊しきった民衆の姿であった。越軍はすでに国中を制圧しつつある。夫差はやむなく、使者を遣わして越に和を請うた。厚礼を贈り、講和を乞うのである。このとき、越側には微妙な駆け引きがあった。史料は「越は自ら度るにまた呉を滅ぼす能わずと、すなわち呉と平ぐ」と記す。一挙に呉を滅ぼす力は、まだないと判断したのだ。句踐と范蠡は、ここで一旦兵を引き、時を待つことを選んだ。

余談だが、この「一旦の講和」は、戦略的に見て極めて賢明であった。もしここで無理に攻め立て、夫差と残存兵力を徹底的に追い詰めれば、かえって「窮鼠猫を噛む」で、越軍に大きな損害が出たかもしれない。また、中原の諸侯が、急速に台頭する越を警戒し、呉を助けるために介入してくる可能性もあった。力を温存し、呉をさらに疲弊させる時間を買ったのである。范蠡の計算は、常に冷静で、先を見据えていた。

それから四年。越は再び呉を伐った。この間、夫差はというと、かつての栄光を取り戻そうと、無理な外征を繰り返していた。特に斉や晋との戦いで、呉の精鋭は消耗し尽くしていた。国内は疲弊し、民衆の不満は頂点に達している。まさに、完膚なきまでに弱体化したところを、越は狙い撃ちにしたのである。

戦いは、もはや戦いと呼べるものではなかった。越軍は呉の都を包囲し、三年にわたって兵糧攻めにした。城内では餓死者が続出し、もはや戦意などどこにもない。ついに夫差は、わずかな供を連れて、姑蘇こその山に逃げ込んだ。ここが、彼の最後の砦である。

姑蘇の山とは、現在の蘇州市の西にある山で、かつて呉王が離宮を築いた風光明媚な地であった。その美しい山懐に、かつての天下の覇者が、ボロボロの姿で追い詰められる。歴史の皮肉とは、このことを言うのであろう。

夫差は、最後の使者を立てた。大夫の公孫雄こうそんゆうである。彼は上衣を脱ぎ、裸の肩を見せ(肉袒)、膝で這うようにして(膝行)、越の本陣へと進んだ。これは、古代中国において最も卑屈な降伏の姿勢である。公孫雄は句踐の前に額を地に擦りつけ、こう言った。

「孤臣夫差敢えて腹心を布く、異日嘗て会稽にて罪を得たり、夫差は命に逆らわず、君王と成を得て以て帰る。今君王玉趾を挙げて孤臣を誅す、孤臣は命を聴くのみ、意うらには亦た会稽の如く孤臣の罪を赦さんことを欲するか」

なんという言葉であろうか。「かつて会稽で、私(夫差)はあなた(句踐)の罪を許し、講和を与えて帰国させてあげました。今、あなたが私を討とうとするなら、私は従うしかありません。しかし、ひそかに願うのは、会稽のときのように、私の罪をお赦し頂けないでしょうか」

これは、完全なる「因果応報」の論理である。かつての恩を盾に、命乞いをする。この言葉を聞いた句踐は、どう反応したか。

「句踐は忍びず、之を許さんと欲す」

彼は、許そうと思ったのである。長年の宿敵が、ここまで零落した姿で哀願する。その様に、人間としての「情」が動いたのだ。二十二年の歳月を、復讐の一念で生きてきた男の胸中に、一瞬、隙間ができた。もしここで彼が「よし」と言えば、歴史はまた違ったものになっていたかもしれない。夫差は命を長らえ、いずれ再起の機会をうかがったことだろう。

しかし、その瞬間、一人の男が割って入った。范蠡である。

彼は、主君の心が揺らいでいるのを、鋭く見抜いた。そして、烈火のごとく諫言する。

「会稽の事は、天以て越を呉に賜う、呉は取らず。今天以て呉を越に賜う、越其れ天に逆らうべけんや。且つ夫れ君王は蚤く朝し晏く罷む、呉の為に非ずや。之を謀ること二十二年、一旦にして之を棄つ、可ならんや。且つ夫れ天与うるも取らざれば、反って其の咎を受く。『柯を伐る者は其の則ち遠からず』、君は会稽の厄を忘れたるか」

この言葉は、いくつもの重い論理を含んでいる。まず、「天の与えるものを取らねば、かえって災いを受ける」という天命思想。次に、二十二年もの間、朝早くから夜遅くまで苦心してきた努力を、一旦で捨てるべきではないという現実論。そして、「斧の柄を作る者は、その手本を遠くに求めない」(手近な例に倣え)という故事を引き、「あなたは会稽での苦難を忘れたのですか」と、最も痛いところを突く。

これは、もはや家臣の諫言という域を超えている。それは、共に苦難を乗り越えてきた同志の、痛烈な叱咤であった。句踐は、まだ迷う。「吾子の言を聴かんと欲す、其の使者を忍びず」。お前の言うことは聞きたいが、あの使者(公孫雄)の哀れな様子を見るに忍びない、と。

ここで范蠡は、決定的な行動に出る。彼は進み出て、自ら陣太鼓を打ち鳴らし、兵士たちに進軍を促したのである。そして、公孫雄に向かって言う。「王已に政を執事に属す、使者去らざれば将に罪を得ん」。王はすでに一切を私(范蠡)に任せられた。お前がここから去らなければ、罪に問われるだろう、と。これは、王の意向を無視した、事実上のクーデター宣言に等しい。

公孫雄は泣きながら去っていった。この場面は、実にドラマチックである。情に流されそうになる君主を、冷徹な参謀が、強引にでも正しい道へと引き戻す。范蠡は、もはや句踐個人の感情などよりも、越という国家の未来、そして「天の意志」を優先したのである。

しかし、句踐もまた、最後の情けは示した。彼は人をやって夫差に伝えさせた。「吾王を甬東ようとうに置き、君に百家を給す」。甬東(現在の浙江省舟山群島あたり)にあなたを住まわせ、百家(百家族)を付き人として与えましょう、と。これは、一応の領地と家臣を与えるという、貴族としての最低限の処遇である。

これに対し、夫差の返答は潔かった。

「吾老いたり、能く君王に事えず」

私はもう年老いた。あなたに仕えることはできません――。

そして、自ら命を絶つ前に、彼はこう呟いたという。

「吾子胥に見るべき面無し」

私は、あの伍子胥に顔向けができない――。

すべてが終わった。二十二年の歳月を経て、復讐は完結した。越王句踐は、ついに会稽の恥を晴らしたのである。彼は夫差を礼をもって葬り、そして、あの太宰嚭を誅殺した。裏切り者は、いずこも同じ末路をたどる。

呉を滅ぼした越の軍勢は、その勢いのまま、淮水わいすいを渡って北上した。現在の地図でいえば、浙江省から江蘇省を抜け、安徽省、そして河南省の南部へと、その兵鋒を向けたのである。このあたりの地形は、黄河と長江にはさまれた広大な平野で、いわゆる中原の南縁にあたる。句踐がここに兵を進めた意図は明らかだ。かつて夫差が目指した「中原の覇者」の座を、今こそ我がものとせん、というのである。

余談だが、この時代の「覇者」という地位は、現代の我々が考える絶対的な支配者とは少し違う。周王朝という形式的な頂点はあくまで残り、その下で最も力を持ち、諸侯をまとめ、夷狄を防ぐ「筆頭格」が覇者と呼ばれた。斉の桓公、晋の文公に続く、新たな覇者の登場を、中原の国々は固唾を呑んで見守っていたに違いない。

句踐は徐州じょしゅう(現在の山東省滕州市付近か)で、斉や晋などの諸侯と会盟した。史料は「貢を周に致す」と記す。周王室へ貢物を送り、形式的な臣従の礼を取ったのである。これに対して、当時の周王(元王げんおう)は、句踐に(祭祀の肉)を賜り、正式に「伯」たることを命じた。ここに、越王句踐は、名実ともに春秋時代の最後の覇者として、天下にその名を轟かせることになった。

彼はその後、淮水の北の地を楚に与え、かつて呉が奪った宋の領土を宋に返還し、魯には泗水以東の地百里を与えた。これは、覇者としての「義」を示す行為である。自らの勢力圏を確定させると同時に、周辺諸国への恩賞として領土を分配し、新たな秩序の構築をアピールしたのだ。この手腕は、単なる戦勝の将軍を超え、政治家としての器量を示している。

「是の時に当たり、越の兵は江・淮の東に横行し、諸侯畢く賀し、号して霸王と称す」

長江と淮水の東側一帯を横行し、すべての諸侯が祝賀し、霸王と称された――。これが、あの会稽の山で「吾はここに終わるか」と嘆いた男の、二十数年後に到達した頂点の風景である。臥薪嘗胆の物語は、ここで一つの完璧な結末を迎えた、と言っていい。

しかし、である。

歴史というものは、頂点に達した瞬間から、下降線を描き始めることが多い。そして、その下降は往々にして、内部から始まる。越の繁栄の陰で、二人の最大の功臣の運命が、静かに、しかし確実に分かれ始めていた。

一人は范蠡はんれい。もう一人は文種ぶんしょうである。

范蠡は、越が覇者としての地位を確立した直後、ある決断を下した。彼は、句踐の下から去るのである。しかも、単なる隠居ではない。彼は、すべての栄誉と地位を捨て、名前を変え、海を渡って斉の地へと消えていった。この行動は、当時の常識からすれば理解しがたいものだった。苦労して築いた地位を、なぜみすみす手放すのか。

だが、范蠡には、そうせねばならぬ理由があった。彼は、句踐という男の本質を、誰よりも深く見抜いていたからだ。史料は、彼が去る際に句踐に宛てた手紙の内容を伝えている。

「臣聞く主憂うれば臣労し、主辱れば臣死す。昔者君王会稽に辱しめらる、所以に死せざるは、此の事の為なり。今既に以て恥を雪ぐ、臣請う会稽の誅に従わん」

「主君が憂いの時は臣は労し、主君が辱めを受けた時は臣は死ぬものです。かつて君王が会稽で辱めを受けた時、私が死ななかったのは、この(恥を雪ぐ)大事のためでした。今、恥は既に晴らされました。どうか、私を会稽の時(に死ぬべきだった者)としてお誅りください」

これは、きわめて技巧的な辞任の申し出である。表面上は、「目的を果たしたので、もう用済みです。どうかお許しを」と懇願している。しかし、その裏には、もっと冷徹な計算があった。句踐がこれを聞いてどう答えたか。

「孤将に子と国を分かちて之を有たん。然らずんば、将に誅を子に加えん」

「私はお前と国を分け合って統治しよう。そうでなければ、お前を誅殺するぞ」

これが、句踐の本音であった。范蠡のような天才は、もはや必要ない。しかし、敵に回せば恐ろしい。だから、国を分け与えるという甘言で繋ぎ止めようとする。もしそれでも従わなければ、殺す――。この言葉に、范蠡はすべてを悟ったに違いない。彼は淡々と答える。

「君は令を行い、臣は意を行う」

「君主はご命令を下さればよろしい。臣下は、自分の意志を実行するのみです」

そして、軽い宝飾品や珠玉だけをまとめ、私的な従者たちと共に船に乗り、海へと漕ぎ出した。二度と戻ることはなかった。この決断の速さ、潔さ。ここに、范蠡という人物の、並外れた現実認識と、生きる知恵が凝縮されている。

彼は海を渡り、斉の地に至ると、姓名を変え、自らを鴟夷子皮しいしひと名乗った。鴟夷とは、革袋のことである。なぜそんな名を選んだのかは諸説あるが、おそらくは「中身のない皮袋」という、自らを卑下した名であったろう。彼は海辺で苦労して耕作し、やがて莫大な財産を築き上げる。その賢さを聞いた斉の人々は、彼を宰相に推挙した。しかし、范蠡はここでもまた、驚くべき行動を取る。宰相の印を返上し、財産をすべて知人や郷里の人々に分け与え、再び姿をくらましたのである。

彼が次に落ち着いたのは、とうという地であった。現在の山東省定陶県付近で、当時は交通の要衝、商業の中心地として栄えていた。彼はここで自らを陶朱公とうしゅこうと名乗り、商売に専念する。時機を見て物資を転売し、十分の一の利を追う。やがてその財産は「巨万」、つまり億万長者と呼ばれるほどに膨れ上がり、天下にその名を知られるようになった。「陶朱公」の名は、後世、大富豪の代名詞となるのである。

范蠡は、三度住む場所を変え、三度とも名声を成した。政治家として、隠遁者として、そして大商人として。これは、単なる幸運ではない。時代の流れと人間の心理を見抜く、彼独自の「生きる術」がそこにあった。

さて、彼が越を去る際、あるいは去った直後、かつての盟友・文種に一通の手紙を送っている。その内容は、あまりにも有名である。

蜚鳥ひちょう尽きて良弓蔵され、狡兔こうと死して走狗そうく烹らる。越王の人と為り長頸鳥喙、与に患難を共にすべく、与に楽を共にすべからず。子何ぞ去らざる」

「飛ぶ鳥がいなくなれば、良い弓はしまい込まれる。狡賢い兎が死ねば、走り回った猟犬は煮て食われる。越王という男は、首が長く口先が尖った(鳥のような)面相で、患難を共にすることはできても、安楽を共にすることはできない。君はなぜ去らないのか」

「長頸鳥喙」。これは、中国の面相学で、猜疑心が強く、恩を忘れやすい面相とされる。范蠡は、句踐の顔つきから、その危険な本性を見抜いていた、というのである。この手紙を受け取った文種は、どうしたか。

彼は「病と称して朝せず」、病気と称して出仕しなくなった。おそらくは、范蠡の警告を真剣に受け止め、身の危険を感じたからだろう。しかし、ここで彼が取った行動は、中途半端であった。完全に隠遁してしまえばよかったものを、ただ出仕を控えるだけでは、かえって疑念を招く。

やがて、文種を讒言する者が現れた。「種は将に乱を作さんとす」、謀反を企てている、というのである。これを聞いた句踐は、文種の下に一振りの剣を送り届けさせた。そして、こう言わせた。

「子寡人に呉を伐つ七術を教う、寡人其の三を用いて呉を敗る、其の四は子に在り、子我が為に先王に従いて之を試みよ」

「お前は私に、呉を討つ七つの秘策を教えてくれた。私はそのうち三つを用いて呉を滅ぼした。残りの四つはお前が持っている。お前は、私に代わってあの世の先王(允常)に従い、その四つの策を試してみてくれ」

なんという冷酷な言葉であろうか。もはや、言い訳の余地などない。お前は用済みだ。死ね――。これが、会稽の苦難を共にし、国政を支え、復讐のための策略の多くを献策した最大の功臣への、最後の報いであった。

文種は、その剣で自ら命を絶った。

范蠡の予言は、悲しいほどに正確に的中したのである。「飛鳥尽きて良弓蔵され」。呉という「飛ぶ鳥」が滅びた今、文種という「良弓」はしまい込まれるどころか、粉々に折られてしまった。

ここに、越王句踐の復讐劇は、完全に終わった。彼は外敵を滅ぼし、内なる功臣もまた消し去った。彼の手元には、巨大な権力だけが残された。しかし、権力というものは、それを支える人材を失えば、たちまち空洞化していく。越という国は、句踐という非凡な個人の力によって、かろうじて巨大な体躯を保っていたに過ぎなかった。その個人が、やがてこの世を去るとき、この国家はどうなるのか。

その答えは、意外に早く、そしてあっけなく訪れるのである。

句踐がこの世を去ってから、越という国は、まるで潮が引くようにその勢いを失っていった。覇者の偉業は、一代で終わる。これが、春秋戦国時代の、いや、古今東西の歴史の、ある種の鉄則である。偉大な創業者の後を継ぐ者たちは、往々にして、その巨大な遺産を維持することさえできなくなる。

史料は、句踐の後の王たちを淡々と列記する。鼫与せきよ不寿ふじゅおうえい之侯しこう。そして、無彊むきょう。名前にすら、かつての覇気は感じられない。彼らはおそらく、祖父や曾祖父の築いた巨大な版図と栄光に胡坐をかき、国内の争いや享楽に明け暮れていたのであろう。国力を支えていたのは、句踐時代に蓄積された「勢い」の惰性でしかなかった。

そして、王無彊おうむきょうの時代が来る。この男の名は「彊(強)きこと無し」と読めるが、皮肉なことに、彼は祖父たちの惰性にすら頼れない、国力を大幅に減退させた状態で、大国に囲まれた国際情勢に直面することになる。北には斉、西には楚。いずれも、越が衰えた隙に急速に台頭した強国である。

無彊は、どうしたか。彼は「越師を興して北に斉を伐ち、西に楚を伐ち、中国と彊を争う」という、まさに無謀な二正面作戦を企てた。かつての越の栄光を取り戻そうとする、焦りと慢心がそうさせたのだろう。しかし、この判断は、完全に誤りであった。

ここで、楚の威王いおうが、巧妙な外交手腕を発揮する。彼は斉の使者(あるいは自国の説客)を越に送り込み、王無彊を説得させた。その説得の内容が、実に興味深い。

「越楚を伐たざれば、大なるも王たらず、小なるも伯たらず。越の楚を伐たざる所以を図るに、晋を得ざるが為なり」

「越が楚を討たなければ、大きくても真の王にはなれず、小さくても覇者にはなれない。越が楚を討たない理由を考えるに、晋の支援が得られないからだろう」

つまり、まず越の弱点(晋の支援がない)を指摘し、その上で、晋が本気で越を助けない理由を、地理的・軍事的に詳細に論じていく。そして、核心に迫る。

「今王晋の失計を知りて、自ら越の過ちを知らず、是れ目論なり」

「今、王は晋の計算違いは知っていながら、自分たち越の過ちには気づかない。これは『目論み』(目の前の小さなものばかり見て、大きなものを見ないこと)である」

「目論み」という言葉が、ここで登場する。木を見て森を見ず、という故事の由来ともいわれるこの言葉は、越という国の、この時点での状況を完璧に言い表していた。彼らは、かつての栄光という「木」にばかり目を奪われ、周囲で力をつけつつある楚という巨大な「森」の脅威を、まともに認識できていなかった。

説客は続ける。「且つ王の求むる所は、晋楚を闘わしむるなり。晋楚闘わざれば、越兵起こらず、是れ二五を知りて十を知らざるなり」。あなたが望んでいるのは晋と楚を戦わせることだが、彼らが戦わなければ越は出兵できない。これは、二と五は知っていても、それが足して十になることを知らないようなものだ、と嘲笑する。そして、最後に決定的な一言を放つ。

「此時楚を攻めざれば、臣是を以て越の大なるも王たらず、小なるも伯たらずと知る」

「今この時に楚を攻めなければ、私は越が大きくても王ではなく、小さくても覇者ではない、と知ることになるでしょう」

これは、完全なる挑発である。しかも、越の自尊心を巧妙に刺激する形での挑発だ。無彊は、この言葉に乗せられた。「ここにおいて越遂に斉を釈めて楚を伐つ」。彼は、斉を討つのをやめ、矛先を楚に向けてしまったのである。

結果は、火を見るより明らかだった。楚の威王は大軍を起こしてこれを迎え撃ち、「大いに越を敗り、王無彊を殺し、尽く故呉の地を取ること浙江に至」った。かつて句踐が呉から奪い取った広大な領土、すなわち現在の江蘇省南部から浙江省北部にかけての肥沃な地を、すべて楚に奪い取られてしまったのである。越の本拠地である浙江(銭塘江)以南にまで追い詰められ、王無彊は戦死した。

「而して越此を以て散じ、諸族子争いて立ち、或いは王と為り、或いは君と為り、江南海上に濱り、楚に服して朝す」

ここに、かつての覇者・越は、事実上滅亡した。王族の子孫たちはばらばらに分裂し、それぞれが小さな王や君を称しては、江南の海辺に散らばり、楚に服属して朝貢するだけの存在となった。句踐が築き上げた巨大な国家は、わずか数代で、このような無残な姿に帰してしまったのである。

余談だが、その分裂した一族の一部は、後世まで命脈を保つ。閩君搖びんくんようという人物は、秦末の動乱期に諸侯を助けて秦を倒す功績を挙げ、漢の高祖劉邦によって再び越王に封じられた。いわゆる「東越」「閩越」である。しかし、それはもはや、かつて中原に覇を唱えた越の再来ではなく、辺境の一小勢力に過ぎなかった。歴史の波に揉まれ、やがて漢帝国に吸収されていくその姿は、栄枯盛衰の理を、静かに物語っている。

さて、越の興亡とは対照的に、一人の男の人生は、別の意味で驚くべき完結を見せていた。范蠡はんれい、すなわち陶朱公とうしゅこうである。

彼は陶の地で大商人として成功を収め、「天下陶朱公と称す」と言われるほどの名声と富を手にしていた。しかし、この男の人生は、富の追求で終わるほど単純ではなかった。史料は、彼の晩年を彩る、一つの悲劇的で、そして極めて示唆に富むエピソードを伝えている。

范蠡には三人の息子がいた。末子が成人した頃、次男が楚の地で人を殺し、囚われの身となった。范蠡は言った。「人を殺して死ぬのは、当然の報いである。しかし私は聞く、千金の子は市で死なぬと」。千金を持つ家の子は、刑場で死ぬことはない(金で助け出せる)という、当時の俗諺を引いたのである。彼は、末子を使者として楚に送り、黄金千溢(溢は重量単位)を粗末な器に詰め、牛車に載せて行かせようとした。

ところが、ここで長男が強硬に反対する。「家に長子あればこれを家督とし、今弟が罪あるに、父上は遣わさず、かえって末弟を遣わそうとされる。これは私が不肖だからです」。長男としての面目が立たない、と主張し、どうしても自分に行かせてほしいと懇願する。挙句の果てには「自殺しようとした」。母がとりなして、末弟を遣わしても成功する保証はないのに、まず長男を失ってはならない、と説得する。范蠡はやむなく長男を行かせることにした。

彼は長男に、旧知の莊生そうせいという人物への手紙と千金を託し、「彼のなすがままに任せ、決して彼と争ってはならない」と厳命した。長男は出発したが、内心では不安だったのか、さらに私的に数百金を持ち出していった。

楚に着いた長男が莊生の家を訪ねると、そこは城壁の外れの貧しい長屋のような所で、生活は質素そのものだった。彼は父の言う通りに千金を渡すが、莊生は「速やかに去り、弟が出ても理由を問うな」と言うだけだった。長男は去ったが、莊生を信用できず、結局、自分で持ってきた数百金を使って楚の権力者に賄賂を贈り、情報を探り始めた。

実はこの莊生、見かけは貧しいが、清廉さで国中に知られ、楚王からも師と仰がれる隠れた大物であった。范蠡の金を受け取ったのは、一旦預かって事が成った後に返し、信義を示そうとしただけだった。彼は妻に「これは朱公の金だ。後で返すから触れるな」とまで言い置いている。

やがて莊生は楚王に会い、星宿の異変を理由に「徳を以てすれば除くことができる」と進言する。楚王は彼を信じ、すぐに恩赦を準備し始めた。三銭の府(国庫)を封じるのが、その合図だった。この情報を、賄賂を贈った権力者から聞いた長男は、弟が赦されると確信する。そして、あの貧乏な莊生に大金を預けたことが馬鹿馬鹿しくなり、再び莊生を訪ね、金を返してほしいと申し出たのである。

莊生はその浅はかさに憤り、恥辱を感じた。彼はすぐに楚王に再び会い、「巷では、王が恩赦を出したのは、陶の富豪・朱公の息子を助けるためだ、と噂されています」と告げ口した。楚王は激怒する。「寡人は不徳ではあるが、どうして朱公の子のために恵みを施そうか」。そして、恩赦を出す「前に」、范蠡の次男をまず処刑するよう命じ、その翌日に恩赦を発令した。長男は、弟の遺骸を担いで帰国するしかなかった。

家に帰り、家族も町の人々も悲しみに暮れる中、ただ一人、范蠡だけは笑っていたという。

「私はもとより必ず弟を殺すと知っていた。彼は弟を愛さないわけではないが、ただ忍びないところがあったのだ。彼は幼少より私と共に苦労を見て、生計を立てる難しさを知っているので、財を棄てることを重んじた。末弟のような者は、生まれた時から私が富んでいるのを見て、堅車に乗り良馬を駆り狡兎を追うような暮らしをし、どうして財がどこから来るかを知ろうか。故に軽々しく棄てて惜しむことがない。先日私が末子を遣わそうとしたのは、まさに彼が財を棄てられるからであった。しかし長子にはそれができず、故についに弟を殺すことになった。事の道理であり、悲しむに足りない。私は日夜、固よりその喪が来るのを待っていたのだ」

この言葉は、范蠡という人物の人間観、運命観を、すべて語り尽くしている。彼は、人間の行動原理を、その生育環境と経済感覚から冷徹に見抜いていた。長男は苦労を知っているから金に執着し、末子は豊かさに育ったから金に執着しない。その「執着」の有無が、この場合、弟の生死を分けた。范蠡は最初からその結末を予見し、それでも長男の願いを聞き入れた。それは、人間の「性(さが)」が変えられないことを知っていたからであろう。彼は、運命の道理を受け入れ、悲しみよりも、むしろその正確な読みが当たったことを、一種の諦観をもって笑ったのである。

「故に范蠡は三度遷り、天下に名を成した。苟も去るのみではなく、止まる所必ず名を成した。ついに陶で老死したので、世に陶朱公と伝えられる」

越の名将として、斉の隠者として、陶の大商人として。三つの人生を生き、三度とも頂点を極めた。これは、単なる幸運や才能を超えた、一種の「生きる達人」の域に達している。句踐が復讐という一点に全てを賭け、その果てに国さえも早々と衰退させたのとは対照的に、范蠡は常に流動する状況の中で自らを変容させ、時代の波を乗りこなしていった。

太史公司馬遷は、この『越王句踐世家』の最後に、こう結んでいる。

「禹の功は大いなるかな。九川を導き、九州を定め、今に至るまで諸夏は安寧である。その末裔の句踐に至っては、身を苦しめ思慮を焦がし、ついに強き呉を滅ぼし、北に兵を観て中国に臨み、周室を尊び、霸王と号した。句踐は賢なりと言わざるべけんや。蓋し禹の遺烈有るか。范蠡は三遷して皆栄名有り、名は後世に垂れる。臣と主とこの如き、顕れざらんと欲して得んや」

大禹の偉大な功績。その末裔である句踐の、見事な復讐と覇業。そして、彼を支え、しかし自らもまた驚くべき人生を歩んだ范蠡。このような主従が、歴史に顕れずにいられようか、と。

確かに、句踐と范蠡の物語は、二千数百年を経た今も、我々を強く惹きつけてやまない。それは、屈辱からの這い上がり、執念の復讐というドラマの面白さだけではない。その中で光る、人間の知恵と愚かさ、情念と打算、そして栄華の果ての儚さが、時代を超えて共感を呼ぶのである。越という国は散り散りとなり、やがて歴史の彼方に消えた。だが、会稽の胆の苦味と、姑蘇の山で呟かれた「吾子胥に見るべき面無し」という言葉は、今も、歴史を読む者の胸に、生々しい余韻を響かせ続けている。

(完)