余談だが、会稽という山は、いまの浙江省紹興市の南にそびえている。このあたりの地形は、日本の紀伊半島の山々に似て、鬱蒼とした森林と急峻な谷が入り組んだ、まさに「逃げ込む」にはうってつけの土地である。呉の大軍が押し寄せたとき、越王句踐がここに五千の残兵を率いて立て籠もったのも、道理であった。山の斜面を登れば、眼下には広大な呉の平野が広がり、その先には東シナ海の青がかすむ。だが、そのときの句踐の目には、敵の旌旗の波しか映っていなかったろう。
「吾はここに終わるか」
山頂の岩陰で、句踐はそう呟いた。史料はこの一言を、喟然として嘆いた、と記す。絶望の淵に立たされた男の、ごく自然な吐息である。彼の先祖は、かの大禹の末裔だと称する。夏王朝の始祖である。その血を引く者が、山奥に追い詰められ、滅亡の時を数えるとは、なんという皮肉であろうか。しかし、歴史というものは、皮肉と逆説でできている。この絶望が、のちの驚くべき復活劇の、ただ一つの起爆剤となったのである。
側にいた大夫の文種は、すぐに答えた。
「湯は夏台に繋がれ、文王は羑里に囚われ、晋の重耳は翟に奔り、斉の小白は莒に奔り、その卒に王霸たり。これよりこれを観るに、何ぞ遽かに福と為らざらんや」
つまり、かつて苦難を味わった偉大な君主たちの例を挙げ、今の苦境こそが将来の栄光の種だ、と励ましたのである。この文種という男、なかなかどうして、現実的な策士であった。彼はこの直後、主君に驚くべき進言をする。それは、現代の感覚でいえば、国家の全面降伏、そして属国化である。
「卑辞厚礼を以てこれを遺わし、許さざれば、身を以てこれと市せん」
「市」とは、取引である。命と引き換えに、国を売る。ここで句踐は、「諾」と一言で答えた。この決断の速さが、この男の本質を物語っている。彼は、プライドなどという虚飾に縛られない、きわめて合理的精神の持ち主であった。あるいは、そうならざるを得なかった。生き延びるためには、どんな恥も飲み干す。それが、こののち二十二年にわたる復讐劇の、最初の、そして最も辛い一歩だった。
さて、話を戻そう。文種は呉に赴き、呉王夫差の前に額を地に擦りつけながら言う。「君王の亡臣句踐、陪臣の種を使わして敢えて下執事に告げしむ。句踐は臣たることを請い、妻は妾たることを請う」。完全な屈服の姿勢である。ところが、ここで事態は急変した。呉の重臣、伍子胥が強硬に反対するのである。
「天は越を以て呉に賜う。許すなかれ」
天が越を呉に与えたのだから、滅ぼすべきだ、というのである。これは単なる好戦的な意見ではない。伍子胥は、越という国、そして句踐という男の危険性を、鋭く見抜いていた。彼は楚から亡命してきた苦労人であり、復讐という情念が国家をどう動かすかを、骨身に沁みて知っていた。だからこそ、同じ復讐の炎を心に宿す句踐を、この場で消し去らねばならぬ、と直感したのだ。
文種がこの報告をすると、句踐は激昂し、妻子を殺し、宝器を焼き、最後の突撃を敢行しようとした。これが普通の君主の反応であろう。しかし、ここで文種は再び、冷徹な現実主義を発揮する。彼は句踐を制し、こう言うのである。
「夫れ呉の太宰嚭は貪りなり。利を以て誘うべし」
太宰嚭。この人物こそ、呉越の命運を決めた、もう一人のキーパーソンである。彼は、後に越から莫大な賄賂を受け取ることになる。歴史は往々にして、一人の貪欲な男の手によって、大きく舵を切られるものだ。文種は美女と宝器を携え、密かに嚭を訪ね、抱き込むことに成功する。嚭は呉王夫差を説得した。「越は以て服して臣と為る。若し将にこれを赦さば、これ国の利なり」。ここに、国家の大戦略が、一個人の私腹のためだけに捻じ曲げられる瞬間がある。
伍子胥は再び諫める。「今越を滅ぼさざれば、後必ずこれを悔いん。句踐は賢君、種・蠡は良臣、若し国に反らば、将に乱を為さん」。まったくその通りである。だが、夫差は聴かなかった。彼はすでに、中原の覇者となる夢を見始めていた。辺境の越などに拘っている場合ではない、という驕りが、彼の判断を曇らせた。あるいは、降伏してくる敵を寛大に許すという、覇者の風格を示したかったのかもしれない。いずれにせよ、これは致命的な誤算であった。
夫差は越を赦し、兵を引いた。
越王句踐は、かろうじて滅亡を免れた。しかし、彼の受けた屈辱は、計り知れないものがあった。ここから、あの有名な「臥薪嘗胆」の日々が始まるのである。
彼は国に帰ると、すぐに尋常ならざる行動に出た。まず「胆」を室内に吊るし、座るたび寝るたび、それを仰ぎ見、食事の際にもそれを嘗めた。「汝、会稽の恥を忘れたるか」と自らに言い聞かせるためである。これは単なる故事成語として伝わるが、その実態はもっと生々しい。胆とは、おそらく獣の苦い胆嚢であろう。それを舐める苦さが、会稽山での屈辱の味そのものであり、それを忘れまいとする、一種の自己拷問に近い行為だった。
さらに彼は、自ら田を耕し、夫人は自ら機を織った。美食を排し、華美な衣服を着ず、賢者には頭を垂れ、賓客を厚くもてなし、貧しい者を救い、死者を弔った。要するに、君主の威張りを一切捨て去り、民衆と苦楽を共にしようとしたのである。これは、単なるパフォーマンスではなかった。国力を回復し、呉に復讐するためには、国内の結束が何よりも必要だった。彼は、民衆の支持という土台を、自らの汗と謙虚さで固めていった。
余談だが、この「民と苦楽を共にする」という姿勢は、中国史において繰り返し現れる理想君主の条件である。しかし、それが単なるポーズで終わるか、真実の力となるかは、為政者の本気度にかかっている。句踐の場合、それはまぎれもない本気であった。彼の心は、復讐の一念で燃え上がっていた。その炎が、彼のすべての行動を、尋常ならざるものに変えていった。
国政の運営については、彼は二人の天才家臣に任せきった。文種と范蠡である。范蠡が「兵甲の事は、種は蠡に如かず。国家を塡撫し、百姓に親附するは、蠡は種に如かず」と言えば、句踐は即座に内政を文種に、外交と軍事を范蠡に委ねる。自分にないものは、持っている者に任せる。これもまた、彼の合理的精神の現れであった。
こうして越は、静かに、しかし確実に力を蓄え始める。一方、呉はどうか。夫差は、赦した越のことなどすっかり忘れたかのように、北へ北へと勢力を拡大していった。斉を討ち、中原の諸侯と会盟する。まさに春秋時代の覇者の道を歩んでいる。しかし、その背後で、一つの禍根がくすぶり続けていた。伍子胥の存在である。
彼は、越の危険性を説き続けた。夫差が斉を討とうとすると、「呉に越有るは、腹心の疾、斉と呉は、疥癬なり」と、まず越を討つべきだと強く諫めた。腹心の病と、皮膚の軽いかゆみ。この比喩は実に鮮やかである。しかし、勝利に酔い、周囲の歓声に包まれる夫差の耳には、この忠言は煩わしい雑音としか聞こえなかった。
そして、ついに決定的な事件が起きる。越が呉に穀物の貸し付けを申し出たとき、伍子胥は反対したが、夫差はあっさりとそれを許してしまう。この穀物は、実は越が呉の国力を見極めるための「試料」であった。それを許したということは、呉の内政が既に弛緩している証拠だと、文種は看破した。
伍子胥は嘆いた。「王諫を聴かず、後三年にして呉その墟と為らんか」
この預言めいた言葉が、彼の運命を決めた。太宰嚭と、越から抱き込まれていたもう一人の大夫・逢同が結託し、伍子胥を讒言する。「伍員は貌忠にして実は忍人なり。その父兄顧みず、安んぞ王を顧みんや」。かつて楚への復讐のために、父兄の仇を追って呉に来たことを逆手に取り、家族さえ顧みない冷酷な男が、主君を本当に思うはずがない、というのである。これは、実に巧妙な心理攻撃であった。
夫差の猜疑心に火がついた。そこへ、伍子胥が斉に使者として赴いた際、自分の子を斉の鮑氏に託したという報告が入る。これが「裏切り」の決定的証拠とみなされた。怒り狂った夫差は、属鏤の剣を賜い、伍子胥に自決を命じた。
ここで、歴史は劇的な一行を記録している。伍子胥が大笑して言うのである。
「我、而が父をして覇たらしめ、我又た若を立てたり。若は初め呉国の半ばを我に予えんと欲し、我受けず。已に、今若は反って讒を以て我を誅す。嗟乎、嗟乎、一人固より独り立つ能わず」
そして、使者にこう言い残した。「必ず我が眼を取って呉の東門に置き、以て越兵の入るを観よ」
死に臨んでなお、己の正しさを信じ、やがて来る滅亡を予告する。この強烈な個性は、まさに司馬遼太郎が好んで描く「最後の士」の典型である。彼の眼は、果たして東門に晒されただろうか。史料はそれを記さない。だが、彼の死をもって、呉という国の柱は一本、がっくりと折れた。以後、国政は完全に太宰嚭の手に堕ちる。
会稽の恥から、七年。越の国力は着実に回復し、民衆の心は一つにまとまっていた。復讐の機は、熟しつつあった。
「可なり」
范蠡がそう言ったとき、越の宮廷には、長い沈黙が流れた。句踐は、ただじっとこの軍師の顔を見つめていたに違いない。七年どころか、会稽の恥から数えれば、すでに十数年が経過している。その間、彼は胆を嘗め、民と共に汗を流し、耐えに耐えてきた。この一言を待ちわびていたのである。
しかし、范蠡の判断は、単に主君の焦りに応えたものではなかった。彼は、周到な情勢分析の上で、そう言った。呉王夫差が、精鋭をすべて引き連れて北の黄池へと赴き、国内が空虚になっている。しかも、国政を預かる太宰嚭は、越から抱き込まれた男である。これ以上ない好機であった。だが、范蠡はもう一つ、決定的な要素を見逃さなかった。それは、夫差という男の「心理」である。
夫差は今、中原の諸侯と会盟し、周王朝を戴く天下の覇者たらんとしている。その舞台の只中で、本国からの急報が届いたら、彼はどうするか。慌てて帰国すれば、会盟は瓦解し、覇者の顔は丸つぶれだ。かといって無視すれば、国を失う。彼は、この板挟みの中で、苦渋の決断を迫られる。范蠡は、その動揺と混乱を、計算に入れていたのである。
「すなわち習流二千人を発し、教士四万人、君子六千人、諸御千人を以て、呉を伐つ」
史料は淡々と軍勢の内訳を記す。習流とは水軍、教士は訓練された兵士、君子はおそらく近衛の精鋭、諸御は車兵や御者であろう。総勢五万に近い軍勢が、静かに国境を越えた。その動きは、まさに鷙鳥(猛禽)が獲物を狙うように、迅速かつ沈黙を伴っていた。かつて逢同が言った「鷙鳥の撃つや、必ずその形を匿す」という言葉通りである。
戦いは、ほぼ一方的なものだった。留守を預かる呉の太子は防戦したが、老弱ばかりの軍勢では、鍛え抜かれた越の精兵に敵うはずがない。太子は討ち取られ、呉の都は震撼した。急報は、黄池にいる夫差の下へ、一刻を争って飛んだ。
さて、ここで想像してほしい。現在の河南省封丘県の南あたりとされる黄池の地で、諸侯を前に威風堂々としていた夫差の表情が、一瞬で凍りつく様を。彼はまさに、天下の盟主として周王から認められんとする、その瞬間であった。報告を受けた彼は、おそらく血の気が引いたことだろう。しかし、ここでこの男は、驚くべき決断をする。
「天下のこれを聞くを懼れ、すなわちこれを秘す」
彼は、越の侵攻という衝撃的事実を、諸侯たちに隠したのである。顔色一つ変えず、会盟を強行した。これは、ある意味では凄まじい強がりというか、覇者としてのメンツにこだわる、彼らしい判断だった。しかし、それは同時に、本国の危機に対処する最も貴重な時間を、無駄に費やす結果となった。
会盟をようやく終え、慌てて帰国した夫差の目に映ったのは、荒れ果てた国土と、疲弊しきった民衆の姿であった。越軍はすでに国中を制圧しつつある。夫差はやむなく、使者を遣わして越に和を請うた。厚礼を贈り、講和を乞うのである。このとき、越側には微妙な駆け引きがあった。史料は「越は自ら度るにまた呉を滅ぼす能わずと、すなわち呉と平ぐ」と記す。一挙に呉を滅ぼす力は、まだないと判断したのだ。句踐と范蠡は、ここで一旦兵を引き、時を待つことを選んだ。
余談だが、この「一旦の講和」は、戦略的に見て極めて賢明であった。もしここで無理に攻め立て、夫差と残存兵力を徹底的に追い詰めれば、かえって「窮鼠猫を噛む」で、越軍に大きな損害が出たかもしれない。また、中原の諸侯が、急速に台頭する越を警戒し、呉を助けるために介入してくる可能性もあった。力を温存し、呉をさらに疲弊させる時間を買ったのである。范蠡の計算は、常に冷静で、先を見据えていた。
それから四年。越は再び呉を伐った。この間、夫差はというと、かつての栄光を取り戻そうと、無理な外征を繰り返していた。特に斉や晋との戦いで、呉の精鋭は消耗し尽くしていた。国内は疲弊し、民衆の不満は頂点に達している。まさに、完膚なきまでに弱体化したところを、越は狙い撃ちにしたのである。
戦いは、もはや戦いと呼べるものではなかった。越軍は呉の都を包囲し、三年にわたって兵糧攻めにした。城内では餓死者が続出し、もはや戦意などどこにもない。ついに夫差は、わずかな供を連れて、姑蘇の山に逃げ込んだ。ここが、彼の最後の砦である。
姑蘇の山とは、現在の蘇州市の西にある山で、かつて呉王が離宮を築いた風光明媚な地であった。その美しい山懐に、かつての天下の覇者が、ボロボロの姿で追い詰められる。歴史の皮肉とは、このことを言うのであろう。
夫差は、最後の使者を立てた。大夫の公孫雄である。彼は上衣を脱ぎ、裸の肩を見せ(肉袒)、膝で這うようにして(膝行)、越の本陣へと進んだ。これは、古代中国において最も卑屈な降伏の姿勢である。公孫雄は句踐の前に額を地に擦りつけ、こう言った。
「孤臣夫差敢えて腹心を布く、異日嘗て会稽にて罪を得たり、夫差は命に逆らわず、君王と成を得て以て帰る。今君王玉趾を挙げて孤臣を誅す、孤臣は命を聴くのみ、意うらには亦た会稽の如く孤臣の罪を赦さんことを欲するか」
なんという言葉であろうか。「かつて会稽で、私(夫差)はあなた(句踐)の罪を許し、講和を与えて帰国させてあげました。今、あなたが私を討とうとするなら、私は従うしかありません。しかし、ひそかに願うのは、会稽のときのように、私の罪をお赦し頂けないでしょうか」
これは、完全なる「因果応報」の論理である。かつての恩を盾に、命乞いをする。この言葉を聞いた句踐は、どう反応したか。
「句踐は忍びず、之を許さんと欲す」
彼は、許そうと思ったのである。長年の宿敵が、ここまで零落した姿で哀願する。その様に、人間としての「情」が動いたのだ。二十二年の歳月を、復讐の一念で生きてきた男の胸中に、一瞬、隙間ができた。もしここで彼が「よし」と言えば、歴史はまた違ったものになっていたかもしれない。夫差は命を長らえ、いずれ再起の機会をうかがったことだろう。
しかし、その瞬間、一人の男が割って入った。范蠡である。
彼は、主君の心が揺らいでいるのを、鋭く見抜いた。そして、烈火のごとく諫言する。
「会稽の事は、天以て越を呉に賜う、呉は取らず。今天以て呉を越に賜う、越其れ天に逆らうべけんや。且つ夫れ君王は蚤く朝し晏く罷む、呉の為に非ずや。之を謀ること二十二年、一旦にして之を棄つ、可ならんや。且つ夫れ天与うるも取らざれば、反って其の咎を受く。『柯を伐る者は其の則ち遠からず』、君は会稽の厄を忘れたるか」
この言葉は、いくつもの重い論理を含んでいる。まず、「天の与えるものを取らねば、かえって災いを受ける」という天命思想。次に、二十二年もの間、朝早くから夜遅くまで苦心してきた努力を、一旦で捨てるべきではないという現実論。そして、「斧の柄を作る者は、その手本を遠くに求めない」(手近な例に倣え)という故事を引き、「あなたは会稽での苦難を忘れたのですか」と、最も痛いところを突く。
これは、もはや家臣の諫言という域を超えている。それは、共に苦難を乗り越えてきた同志の、痛烈な叱咤であった。句踐は、まだ迷う。「吾子の言を聴かんと欲す、其の使者を忍びず」。お前の言うことは聞きたいが、あの使者(公孫雄)の哀れな様子を見るに忍びない、と。
ここで范蠡は、決定的な行動に出る。彼は進み出て、自ら陣太鼓を打ち鳴らし、兵士たちに進軍を促したのである。そして、公孫雄に向かって言う。「王已に政を執事に属す、使者去らざれば将に罪を得ん」。王はすでに一切を私(范蠡)に任せられた。お前がここから去らなければ、罪に問われるだろう、と。これは、王の意向を無視した、事実上のクーデター宣言に等しい。
公孫雄は泣きながら去っていった。この場面は、実にドラマチックである。情に流されそうになる君主を、冷徹な参謀が、強引にでも正しい道へと引き戻す。范蠡は、もはや句踐個人の感情などよりも、越という国家の未来、そして「天の意志」を優先したのである。
しかし、句踐もまた、最後の情けは示した。彼は人をやって夫差に伝えさせた。「吾王を甬東に置き、君に百家を給す」。甬東(現在の浙江省舟山群島あたり)にあなたを住まわせ、百家(百家族)を付き人として与えましょう、と。これは、一応の領地と家臣を与えるという、貴族としての最低限の処遇である。
これに対し、夫差の返答は潔かった。
「吾老いたり、能く君王に事えず」
私はもう年老いた。あなたに仕えることはできません――。
そして、自ら命を絶つ前に、彼はこう呟いたという。
「吾子胥に見るべき面無し」
私は、あの伍子胥に顔向けができない――。
すべてが終わった。二十二年の歳月を経て、復讐は完結した。越王句踐は、ついに会稽の恥を晴らしたのである。彼は夫差を礼をもって葬り、そして、あの太宰嚭を誅殺した。裏切り者は、いずこも同じ末路をたどる。
呉を滅ぼした越の軍勢は、その勢いのまま、淮水を渡って北上した。現在の地図でいえば、浙江省から江蘇省を抜け、安徽省、そして河南省の南部へと、その兵鋒を向けたのである。このあたりの地形は、黄河と長江にはさまれた広大な平野で、いわゆる中原の南縁にあたる。句踐がここに兵を進めた意図は明らかだ。かつて夫差が目指した「中原の覇者」の座を、今こそ我がものとせん、というのである。
余談だが、この時代の「覇者」という地位は、現代の我々が考える絶対的な支配者とは少し違う。周王朝という形式的な頂点はあくまで残り、その下で最も力を持ち、諸侯をまとめ、夷狄を防ぐ「筆頭格」が覇者と呼ばれた。斉の桓公、晋の文公に続く、新たな覇者の登場を、中原の国々は固唾を呑んで見守っていたに違いない。
句踐は徐州(現在の山東省滕州市付近か)で、斉や晋などの諸侯と会盟した。史料は「貢を周に致す」と記す。周王室へ貢物を送り、形式的な臣従の礼を取ったのである。これに対して、当時の周王(元王)は、句踐に胙(祭祀の肉)を賜り、正式に「伯」たることを命じた。ここに、越王句踐は、名実ともに春秋時代の最後の覇者として、天下にその名を轟かせることになった。
彼はその後、淮水の北の地を楚に与え、かつて呉が奪った宋の領土を宋に返還し、魯には泗水以東の地百里を与えた。これは、覇者としての「義」を示す行為である。自らの勢力圏を確定させると同時に、周辺諸国への恩賞として領土を分配し、新たな秩序の構築をアピールしたのだ。この手腕は、単なる戦勝の将軍を超え、政治家としての器量を示している。
「是の時に当たり、越の兵は江・淮の東に横行し、諸侯畢く賀し、号して霸王と称す」
長江と淮水の東側一帯を横行し、すべての諸侯が祝賀し、霸王と称された――。これが、あの会稽の山で「吾はここに終わるか」と嘆いた男の、二十数年後に到達した頂点の風景である。臥薪嘗胆の物語は、ここで一つの完璧な結末を迎えた、と言っていい。
しかし、である。
歴史というものは、頂点に達した瞬間から、下降線を描き始めることが多い。そして、その下降は往々にして、内部から始まる。越の繁栄の陰で、二人の最大の功臣の運命が、静かに、しかし確実に分かれ始めていた。
一人は范蠡。もう一人は文種である。
范蠡は、越が覇者としての地位を確立した直後、ある決断を下した。彼は、句踐の下から去るのである。しかも、単なる隠居ではない。彼は、すべての栄誉と地位を捨て、名前を変え、海を渡って斉の地へと消えていった。この行動は、当時の常識からすれば理解しがたいものだった。苦労して築いた地位を、なぜみすみす手放すのか。
だが、范蠡には、そうせねばならぬ理由があった。彼は、句踐という男の本質を、誰よりも深く見抜いていたからだ。史料は、彼が去る際に句踐に宛てた手紙の内容を伝えている。
「臣聞く主憂うれば臣労し、主辱れば臣死す。昔者君王会稽に辱しめらる、所以に死せざるは、此の事の為なり。今既に以て恥を雪ぐ、臣請う会稽の誅に従わん」
「主君が憂いの時は臣は労し、主君が辱めを受けた時は臣は死ぬものです。かつて君王が会稽で辱めを受けた時、私が死ななかったのは、この(恥を雪ぐ)大事のためでした。今、恥は既に晴らされました。どうか、私を会稽の時(に死ぬべきだった者)としてお誅りください」
これは、きわめて技巧的な辞任の申し出である。表面上は、「目的を果たしたので、もう用済みです。どうかお許しを」と懇願している。しかし、その裏には、もっと冷徹な計算があった。句踐がこれを聞いてどう答えたか。
「孤将に子と国を分かちて之を有たん。然らずんば、将に誅を子に加えん」
「私はお前と国を分け合って統治しよう。そうでなければ、お前を誅殺するぞ」
これが、句踐の本音であった。范蠡のような天才は、もはや必要ない。しかし、敵に回せば恐ろしい。だから、国を分け与えるという甘言で繋ぎ止めようとする。もしそれでも従わなければ、殺す――。この言葉に、范蠡はすべてを悟ったに違いない。彼は淡々と答える。
「君は令を行い、臣は意を行う」
「君主はご命令を下さればよろしい。臣下は、自分の意志を実行するのみです」
そして、軽い宝飾品や珠玉だけをまとめ、私的な従者たちと共に船に乗り、海へと漕ぎ出した。二度と戻ることはなかった。この決断の速さ、潔さ。ここに、范蠡という人物の、並外れた現実認識と、生きる知恵が凝縮されている。
彼は海を渡り、斉の地に至ると、姓名を変え、自らを鴟夷子皮と名乗った。鴟夷とは、革袋のことである。なぜそんな名を選んだのかは諸説あるが、おそらくは「中身のない皮袋」という、自らを卑下した名であったろう。彼は海辺で苦労して耕作し、やがて莫大な財産を築き上げる。その賢さを聞いた斉の人々は、彼を宰相に推挙した。しかし、范蠡はここでもまた、驚くべき行動を取る。宰相の印を返上し、財産をすべて知人や郷里の人々に分け与え、再び姿をくらましたのである。
彼が次に落ち着いたのは、陶という地であった。現在の山東省定陶県付近で、当時は交通の要衝、商業の中心地として栄えていた。彼はここで自らを陶朱公と名乗り、商売に専念する。時機を見て物資を転売し、十分の一の利を追う。やがてその財産は「巨万」、つまり億万長者と呼ばれるほどに膨れ上がり、天下にその名を知られるようになった。「陶朱公」の名は、後世、大富豪の代名詞となるのである。
范蠡は、三度住む場所を変え、三度とも名声を成した。政治家として、隠遁者として、そして大商人として。これは、単なる幸運ではない。時代の流れと人間の心理を見抜く、彼独自の「生きる術」がそこにあった。
さて、彼が越を去る際、あるいは去った直後、かつての盟友・文種に一通の手紙を送っている。その内容は、あまりにも有名である。
「蜚鳥尽きて良弓蔵され、狡兔死して走狗烹らる。越王の人と為り長頸鳥喙、与に患難を共にすべく、与に楽を共にすべからず。子何ぞ去らざる」
「飛ぶ鳥がいなくなれば、良い弓はしまい込まれる。狡賢い兎が死ねば、走り回った猟犬は煮て食われる。越王という男は、首が長く口先が尖った(鳥のような)面相で、患難を共にすることはできても、安楽を共にすることはできない。君はなぜ去らないのか」
「長頸鳥喙」。これは、中国の面相学で、猜疑心が強く、恩を忘れやすい面相とされる。范蠡は、句踐の顔つきから、その危険な本性を見抜いていた、というのである。この手紙を受け取った文種は、どうしたか。
彼は「病と称して朝せず」、病気と称して出仕しなくなった。おそらくは、范蠡の警告を真剣に受け止め、身の危険を感じたからだろう。しかし、ここで彼が取った行動は、中途半端であった。完全に隠遁してしまえばよかったものを、ただ出仕を控えるだけでは、かえって疑念を招く。
やがて、文種を讒言する者が現れた。「種は将に乱を作さんとす」、謀反を企てている、というのである。これを聞いた句踐は、文種の下に一振りの剣を送り届けさせた。そして、こう言わせた。
「子寡人に呉を伐つ七術を教う、寡人其の三を用いて呉を敗る、其の四は子に在り、子我が為に先王に従いて之を試みよ」
「お前は私に、呉を討つ七つの秘策を教えてくれた。私はそのうち三つを用いて呉を滅ぼした。残りの四つはお前が持っている。お前は、私に代わってあの世の先王(允常)に従い、その四つの策を試してみてくれ」
なんという冷酷な言葉であろうか。もはや、言い訳の余地などない。お前は用済みだ。死ね――。これが、会稽の苦難を共にし、国政を支え、復讐のための策略の多くを献策した最大の功臣への、最後の報いであった。
文種は、その剣で自ら命を絶った。
范蠡の予言は、悲しいほどに正確に的中したのである。「飛鳥尽きて良弓蔵され」。呉という「飛ぶ鳥」が滅びた今、文種という「良弓」はしまい込まれるどころか、粉々に折られてしまった。
ここに、越王句踐の復讐劇は、完全に終わった。彼は外敵を滅ぼし、内なる功臣もまた消し去った。彼の手元には、巨大な権力だけが残された。しかし、権力というものは、それを支える人材を失えば、たちまち空洞化していく。越という国は、句踐という非凡な個人の力によって、かろうじて巨大な体躯を保っていたに過ぎなかった。その個人が、やがてこの世を去るとき、この国家はどうなるのか。
その答えは、意外に早く、そしてあっけなく訪れるのである。
句踐がこの世を去ってから、越という国は、まるで潮が引くようにその勢いを失っていった。覇者の偉業は、一代で終わる。これが、春秋戦国時代の、いや、古今東西の歴史の、ある種の鉄則である。偉大な創業者の後を継ぐ者たちは、往々にして、その巨大な遺産を維持することさえできなくなる。
史料は、句踐の後の王たちを淡々と列記する。鼫与、不寿、翁、翳、之侯。そして、無彊。名前にすら、かつての覇気は感じられない。彼らはおそらく、祖父や曾祖父の築いた巨大な版図と栄光に胡坐をかき、国内の争いや享楽に明け暮れていたのであろう。国力を支えていたのは、句踐時代に蓄積された「勢い」の惰性でしかなかった。
そして、王無彊の時代が来る。この男の名は「彊(強)きこと無し」と読めるが、皮肉なことに、彼は祖父たちの惰性にすら頼れない、国力を大幅に減退させた状態で、大国に囲まれた国際情勢に直面することになる。北には斉、西には楚。いずれも、越が衰えた隙に急速に台頭した強国である。
無彊は、どうしたか。彼は「越師を興して北に斉を伐ち、西に楚を伐ち、中国と彊を争う」という、まさに無謀な二正面作戦を企てた。かつての越の栄光を取り戻そうとする、焦りと慢心がそうさせたのだろう。しかし、この判断は、完全に誤りであった。
ここで、楚の威王が、巧妙な外交手腕を発揮する。彼は斉の使者(あるいは自国の説客)を越に送り込み、王無彊を説得させた。その説得の内容が、実に興味深い。
「越楚を伐たざれば、大なるも王たらず、小なるも伯たらず。越の楚を伐たざる所以を図るに、晋を得ざるが為なり」
「越が楚を討たなければ、大きくても真の王にはなれず、小さくても覇者にはなれない。越が楚を討たない理由を考えるに、晋の支援が得られないからだろう」
つまり、まず越の弱点(晋の支援がない)を指摘し、その上で、晋が本気で越を助けない理由を、地理的・軍事的に詳細に論じていく。そして、核心に迫る。
「今王晋の失計を知りて、自ら越の過ちを知らず、是れ目論なり」
「今、王は晋の計算違いは知っていながら、自分たち越の過ちには気づかない。これは『目論み』(目の前の小さなものばかり見て、大きなものを見ないこと)である」
「目論み」という言葉が、ここで登場する。木を見て森を見ず、という故事の由来ともいわれるこの言葉は、越という国の、この時点での状況を完璧に言い表していた。彼らは、かつての栄光という「木」にばかり目を奪われ、周囲で力をつけつつある楚という巨大な「森」の脅威を、まともに認識できていなかった。
説客は続ける。「且つ王の求むる所は、晋楚を闘わしむるなり。晋楚闘わざれば、越兵起こらず、是れ二五を知りて十を知らざるなり」。あなたが望んでいるのは晋と楚を戦わせることだが、彼らが戦わなければ越は出兵できない。これは、二と五は知っていても、それが足して十になることを知らないようなものだ、と嘲笑する。そして、最後に決定的な一言を放つ。
「此時楚を攻めざれば、臣是を以て越の大なるも王たらず、小なるも伯たらずと知る」
「今この時に楚を攻めなければ、私は越が大きくても王ではなく、小さくても覇者ではない、と知ることになるでしょう」
これは、完全なる挑発である。しかも、越の自尊心を巧妙に刺激する形での挑発だ。無彊は、この言葉に乗せられた。「ここにおいて越遂に斉を釈めて楚を伐つ」。彼は、斉を討つのをやめ、矛先を楚に向けてしまったのである。
結果は、火を見るより明らかだった。楚の威王は大軍を起こしてこれを迎え撃ち、「大いに越を敗り、王無彊を殺し、尽く故呉の地を取ること浙江に至」った。かつて句踐が呉から奪い取った広大な領土、すなわち現在の江蘇省南部から浙江省北部にかけての肥沃な地を、すべて楚に奪い取られてしまったのである。越の本拠地である浙江(銭塘江)以南にまで追い詰められ、王無彊は戦死した。
「而して越此を以て散じ、諸族子争いて立ち、或いは王と為り、或いは君と為り、江南海上に濱り、楚に服して朝す」
ここに、かつての覇者・越は、事実上滅亡した。王族の子孫たちはばらばらに分裂し、それぞれが小さな王や君を称しては、江南の海辺に散らばり、楚に服属して朝貢するだけの存在となった。句踐が築き上げた巨大な国家は、わずか数代で、このような無残な姿に帰してしまったのである。
余談だが、その分裂した一族の一部は、後世まで命脈を保つ。閩君搖という人物は、秦末の動乱期に諸侯を助けて秦を倒す功績を挙げ、漢の高祖劉邦によって再び越王に封じられた。いわゆる「東越」「閩越」である。しかし、それはもはや、かつて中原に覇を唱えた越の再来ではなく、辺境の一小勢力に過ぎなかった。歴史の波に揉まれ、やがて漢帝国に吸収されていくその姿は、栄枯盛衰の理を、静かに物語っている。
さて、越の興亡とは対照的に、一人の男の人生は、別の意味で驚くべき完結を見せていた。范蠡、すなわち陶朱公である。
彼は陶の地で大商人として成功を収め、「天下陶朱公と称す」と言われるほどの名声と富を手にしていた。しかし、この男の人生は、富の追求で終わるほど単純ではなかった。史料は、彼の晩年を彩る、一つの悲劇的で、そして極めて示唆に富むエピソードを伝えている。
范蠡には三人の息子がいた。末子が成人した頃、次男が楚の地で人を殺し、囚われの身となった。范蠡は言った。「人を殺して死ぬのは、当然の報いである。しかし私は聞く、千金の子は市で死なぬと」。千金を持つ家の子は、刑場で死ぬことはない(金で助け出せる)という、当時の俗諺を引いたのである。彼は、末子を使者として楚に送り、黄金千溢(溢は重量単位)を粗末な器に詰め、牛車に載せて行かせようとした。
ところが、ここで長男が強硬に反対する。「家に長子あればこれを家督とし、今弟が罪あるに、父上は遣わさず、かえって末弟を遣わそうとされる。これは私が不肖だからです」。長男としての面目が立たない、と主張し、どうしても自分に行かせてほしいと懇願する。挙句の果てには「自殺しようとした」。母がとりなして、末弟を遣わしても成功する保証はないのに、まず長男を失ってはならない、と説得する。范蠡はやむなく長男を行かせることにした。
彼は長男に、旧知の莊生という人物への手紙と千金を託し、「彼のなすがままに任せ、決して彼と争ってはならない」と厳命した。長男は出発したが、内心では不安だったのか、さらに私的に数百金を持ち出していった。
楚に着いた長男が莊生の家を訪ねると、そこは城壁の外れの貧しい長屋のような所で、生活は質素そのものだった。彼は父の言う通りに千金を渡すが、莊生は「速やかに去り、弟が出ても理由を問うな」と言うだけだった。長男は去ったが、莊生を信用できず、結局、自分で持ってきた数百金を使って楚の権力者に賄賂を贈り、情報を探り始めた。
実はこの莊生、見かけは貧しいが、清廉さで国中に知られ、楚王からも師と仰がれる隠れた大物であった。范蠡の金を受け取ったのは、一旦預かって事が成った後に返し、信義を示そうとしただけだった。彼は妻に「これは朱公の金だ。後で返すから触れるな」とまで言い置いている。
やがて莊生は楚王に会い、星宿の異変を理由に「徳を以てすれば除くことができる」と進言する。楚王は彼を信じ、すぐに恩赦を準備し始めた。三銭の府(国庫)を封じるのが、その合図だった。この情報を、賄賂を贈った権力者から聞いた長男は、弟が赦されると確信する。そして、あの貧乏な莊生に大金を預けたことが馬鹿馬鹿しくなり、再び莊生を訪ね、金を返してほしいと申し出たのである。
莊生はその浅はかさに憤り、恥辱を感じた。彼はすぐに楚王に再び会い、「巷では、王が恩赦を出したのは、陶の富豪・朱公の息子を助けるためだ、と噂されています」と告げ口した。楚王は激怒する。「寡人は不徳ではあるが、どうして朱公の子のために恵みを施そうか」。そして、恩赦を出す「前に」、范蠡の次男をまず処刑するよう命じ、その翌日に恩赦を発令した。長男は、弟の遺骸を担いで帰国するしかなかった。
家に帰り、家族も町の人々も悲しみに暮れる中、ただ一人、范蠡だけは笑っていたという。
「私はもとより必ず弟を殺すと知っていた。彼は弟を愛さないわけではないが、ただ忍びないところがあったのだ。彼は幼少より私と共に苦労を見て、生計を立てる難しさを知っているので、財を棄てることを重んじた。末弟のような者は、生まれた時から私が富んでいるのを見て、堅車に乗り良馬を駆り狡兎を追うような暮らしをし、どうして財がどこから来るかを知ろうか。故に軽々しく棄てて惜しむことがない。先日私が末子を遣わそうとしたのは、まさに彼が財を棄てられるからであった。しかし長子にはそれができず、故についに弟を殺すことになった。事の道理であり、悲しむに足りない。私は日夜、固よりその喪が来るのを待っていたのだ」
この言葉は、范蠡という人物の人間観、運命観を、すべて語り尽くしている。彼は、人間の行動原理を、その生育環境と経済感覚から冷徹に見抜いていた。長男は苦労を知っているから金に執着し、末子は豊かさに育ったから金に執着しない。その「執着」の有無が、この場合、弟の生死を分けた。范蠡は最初からその結末を予見し、それでも長男の願いを聞き入れた。それは、人間の「性(さが)」が変えられないことを知っていたからであろう。彼は、運命の道理を受け入れ、悲しみよりも、むしろその正確な読みが当たったことを、一種の諦観をもって笑ったのである。
「故に范蠡は三度遷り、天下に名を成した。苟も去るのみではなく、止まる所必ず名を成した。ついに陶で老死したので、世に陶朱公と伝えられる」
越の名将として、斉の隠者として、陶の大商人として。三つの人生を生き、三度とも頂点を極めた。これは、単なる幸運や才能を超えた、一種の「生きる達人」の域に達している。句踐が復讐という一点に全てを賭け、その果てに国さえも早々と衰退させたのとは対照的に、范蠡は常に流動する状況の中で自らを変容させ、時代の波を乗りこなしていった。
太史公司馬遷は、この『越王句踐世家』の最後に、こう結んでいる。
「禹の功は大いなるかな。九川を導き、九州を定め、今に至るまで諸夏は安寧である。その末裔の句踐に至っては、身を苦しめ思慮を焦がし、ついに強き呉を滅ぼし、北に兵を観て中国に臨み、周室を尊び、霸王と号した。句踐は賢なりと言わざるべけんや。蓋し禹の遺烈有るか。范蠡は三遷して皆栄名有り、名は後世に垂れる。臣と主とこの如き、顕れざらんと欲して得んや」
大禹の偉大な功績。その末裔である句踐の、見事な復讐と覇業。そして、彼を支え、しかし自らもまた驚くべき人生を歩んだ范蠡。このような主従が、歴史に顕れずにいられようか、と。
確かに、句踐と范蠡の物語は、二千数百年を経た今も、我々を強く惹きつけてやまない。それは、屈辱からの這い上がり、執念の復讐というドラマの面白さだけではない。その中で光る、人間の知恵と愚かさ、情念と打算、そして栄華の果ての儚さが、時代を超えて共感を呼ぶのである。越という国は散り散りとなり、やがて歴史の彼方に消えた。だが、会稽の胆の苦味と、姑蘇の山で呟かれた「吾子胥に見るべき面無し」という言葉は、今も、歴史を読む者の胸に、生々しい余韻を響かせ続けている。
(完)