2026年3月26日木曜日

先祖を辿る旅 ヤケクソ命名編

また先祖の古い戸籍を取ってきて解読しておりました。崩し字との孤独な戦い、もはやわたくしのライフワークと化しつつあります。で、今回もまた一つ、人知を超えた発見をしてしまったのであります。

何と、すごい名前を見つけたのです。

イト、コト、そして……キブ

戸籍を順に辿っていくと、女児の名前が並んでおります。「イト」「コト」——まあ、可愛らしい響きではないですか。明治の農村に咲いた小さな花、といった風情です。

問題はその次であります。

「キブ」

……何だよ、キブって。絶対に自分の読み間違いに違いないと何度も何度も戸籍を見直しました。でもやっぱりどう見てもキブだ。

わたくしもこの56年間、日本人としてそれなりの数の名前に触れてまいりましたが、「キブ」は初耳です。どこをどう検索しても出てこない。辞書にもない。強いて言えば、ジャングルの奥地あたりで「キブー!今日は野ブタが獲物だ!イヤッホー」と叫んでいる狩猟民族の掛け声、というイメージしか湧いてこないのであります。日本の明治農村で生まれた女児に付ける名前として、これは一体全体どういう了見なのか。


命名の真相、あるいは壮大なる落胆の記録

全くどういう命名でこうなったのか? と、得体の知れない困惑に包まれながら、ふと戸籍の隣の欄を見ましたら、

「喜文治」

という名前が載っている。

あぁ、わかった。全部わかってしまった。わたくしの脳内で明治の農村の一家団欒が4K動画のように再生されたのです。

つまりこういうことです。最初に生まれたのが女児。次に生まれるのは当然、家督相続のできる男児であろうと、一族郎党が多大なる期待をかけて、生まれる前から名前を決めてしまっていた。「喜文治(きぶんじ)」と。立派な、実に立派な名前です。

しかーし。

生まれてきたのは、またしても女児だったのであります。

一族の落胆たるや、想像に難くありません。女児が生まれるなどとは夢にも思っていなかったものだから、女の子の名前なんてこれっぽっちも考えていなかった。で、この際もう名前なんか何でもいいやと、喜文治(きぶんじ)の上の2文字をもぎ取って「キブ」と命名した——きっとそういうことなのです。もうこれはヤケクソの極致と言えましょう。

生まれる前はメチャメチャに期待されていたのに、この世に出てきた途端、一族の皆様を盛大に落胆させた。選挙特番で落選議員の事務所の中継を見ているのとほぼ同じだと思います。ついさっきまで一同ものすごい期待と気合が入っていたのに、落選が決まった途端に皆お通夜状態、それでも元気のある奴だと「この選挙は無効だ!やり直せ!」とか喚き散らかすでしょうけど、出産は違います。明らかに女児が生まれているのに「この出産はインチキだ!やり直せ!」と叫ぶ愚か者は明治の時代でもいないでしょう。

それにしてもこれまた随分と気の毒な女児がいたものです。キブには何の罪もないのに、この扱い。世間というのは勝手なものであります。ただそこに生まれてきただけで、性別が違うというだけで、名前すらまともに考えてもらえない。「お前の名前は余りものだ」という、実に悲惨な宣告を、生まれた瞬間に受けているわけです。


戸籍の空白、あるいは追跡不能の壁

気になったので、キブの欄をさらに確認してみました。ところが、その上の欄は空欄になっている。どこかに嫁いだとか、いつ死亡したとか、そういう記載が何もないのです。

もしかして本当に「要らん娘」として雑に扱われていたのだろうか——とか、実は山に捨てられてしまったのか、、、一瞬背筋が寒くなりましたが、冷静に考えてみれば理由はあります。明治35年6月12日に弟の喜文治が家督相続をして、新しい戸籍に移行しているのです。だから、キブに関する記録は、その新しい戸籍のほうに引き継がれているはずなのです。

ただ、明治35年といえばキブは24歳。明治の農村という時代背景を考えると、ちょっと行き遅れているかなぁという気がしないでもない。まあ、余計なお世話な事ではありますが。

しかし、ここでベルリンの壁が立ちはだかります。喜文治はわたくしの直系の先祖ではないので、喜文治の戸籍を取得する権利がわたくしにはないのであります。つまり、その後のキブの人生を辿ることは、わたくしには不可能なのです。


遠い遠い昔の親戚のことを思う

キブも幸せな人生を歩んでくれたなら良いんだけどなぁ——と、遠い遠い昔の、会ったこともない親戚のことを、液晶画面の前でしみじみと思いやったりするのでした。

戸籍というのは不思議なもので、崩し字の向こう側に、確かにそこに生きていた人間の息遣いが感じられるのです。名前の付け方一つとっても、その時代の価値観や家族の思惑が生々しく刻まれている。キブという名前は、ある意味で明治の農村社会の「男子偏重」の空気を、たった2文字で雄弁に物語っている。

名前が余りものでも、人生は余りものなんかじゃない。
そう信じたい。

先祖遡りの旅は、まだまだ続くのであります。