2017年8月25日金曜日

「秘境西域八年の潜行」のヒマラヤ街道をGoogle Mapで

せっかくの一人の時間が一週間あるので、愛読書「秘境西域八年の潜行」で西川一三氏が踏破したヒマラヤ街道を、本の記述からまたはカタカナの発音を拾い、現在の場所を照らし合わせて調べてみました。場所を特定できずに予想して書いてある部分も多いですので正確さはわかりません。Google Mapで見ながら、そしてMapに投稿してある写真を見ながら「秘境西域八年の潜行」を読むと、ザッと3倍は楽しめます。

※斜体は「秘境西域八年の潜行」の記述を直接引用した文章。
※文字化けの解消はは中国語フォントのインストールが必要です。

ギャンゼ(ギャンツェ 江孜鎮 Jiāngzī zhèn) 28°54'53.8"N 89°36'16.1"E
--当時人口1万、チベット第3の街。ラサまでは7日。チベット南部の要地パリーまでは6日。カリンポンまでは16日。シカゼ(シガツェ)へは1日半。

 ↓

ネニン(南尼乡 Nán ní xiāng) 28°49'09.6"N 89°39'13.0"E

 ↓ ツァムダンの渓谷

カンマ(カンマル 康马镇 Kāng mǎ zhèn) 28°33'17.3"N 89°40'52.4"E
--20戸ぐらいの農家が点在する。英国、チベットの両駅亭がある。ギャンゼを経由せずラサ方面に向かう間道があり、交通上の要地となっている。

 ↓ 道側の丘上に摺鉢型の小池があり温泉が湧いていた

サマダ(薩馬達郷 萨马达乡 Sà mǎdá xiāng) 28°24'09.7"N 89°33'25.3"E
--カンマから60kmの地点。30~40戸の部落。英国、チベットの両駅亭がある。

 ↓ 

ガラー(嘎拉郷 嘎拉乡 Gā lā xiāng) 28°15'38.4"N 89°23'12.8"E
--部落の南方には、大きなガラー湖が紺碧の色を流して拡がり、湖畔一体は、豊沃な耕作地となっていた。ガラーに宿泊はしていない様子。

 ↓ 

チャルー (恰洛堆 Qià luò duī) 28°13'39.6"N 89°23'12.5"E
--ガラーから8kmほど。10数戸の山峡の部落。
宿は半宿半農の中流の農家で、主人は二人が蒙古人と知ると、気前よく二階のこざっぱりした一室を提供してくれた。
※Google Map, Google Earthでは現在このあたりに集落は見つけられない。

 ↓ チャルーから次の宿泊所「トナー」までは三十五、六キロもあるというので、夜明け前、霜を踏んで出発し、狭い山峡を谷川に沿って東に上って行った。
 ↓ ハラム湖の湖畔を通る

ドツェン(多慶村 多庆村 Duō qìng cūn) 28°08'43.9"N 89°18'18.3"E
--ヒマラヤの霊峰を左に見ながら、沙地の湖畔を行くこと八キロ、「ドツェン」という十戸ばかりの湖畔の部落に到着した。
宿泊はしていない様子。

 ↓ 

グル(古汝村 Gǔ rǔ cūn) 28°05'29.0"N 89°16'44.3"E
--しばらくすると西南方に遠ざかった連山の麓に、三十余戸のグルの部落が遠望された。この部落は英国の遠征軍が、チベット軍と初めて戦闘を交えた地である。
グルには通過も宿泊もしていない様子。

トナー(堆納郷 堆纳乡 Duī nà xiāng) 27°58'21.9"N 89°14'08.7"E
--グルからトナーへの移動は遠く長時間の踏破で、かなり疲労した模様。
--小高い裸山の麓に拡がっているトナーの部落は、石肌、泥肌むき出しの貧弱な低い家が、四十戸余り密集しているのを知ることができた。
 ↓ チュモルハリの山麓をさらに八キロも南に進むと、谷川の辺りに三戸並んでいる、小さな部落に到着する。場所不明

チュカー(場所不明 27°49'06.8"N 89°09'13.4"E もしくは 27°46'28.2"N 89°08'45.6"E か?)

--緩やかに起伏している丘陵間を縫うようにして下ると、二十キロで、高嶺、白雪の山々に囲まれている広漠としたパリー盆地が開けて来て、「チュカー」という部落に出た。

 ↓ チュカーの部落を後にすると、四方から流れ出ている小川で、盆地は比較的草に恵まれた牧野となり、ヤクの群れが方々に姿を見せ、行くこと五キロで、高原の街のパリー城下に到着した。

パリー(帕里鎮 帕里镇 Pà lǐ zhèn) 27°43'08.9"N 89°09'17.5"E
--商人、隊商、旅行者、巡礼者の一大集合地
--この街からトナーにかけては、北部のナクチューと共に、チベットの中で最も寒い街だという定評がある。

 ↓ 

ガオー(場所不明 27°34'31.6"N 89°00'45.7"E か?)
--周囲の景色といい、まったく日本の山峡にさまよい入ったようで、寒気に悩まされていた暗い気分は、一度に吹き飛んでしまった。そして、急に家屋の型が日本式の家屋に変わったのは、雨量の多いヒマラヤの南側に出たことを知らなければならなかった。たどりついた部落はパリーから二十キロのガオーという宿場だった。
--宿場はうっそうとした樅、松、檜と、黒褐色の岩肌で蔽われているふたつの連山が屏風をたて並べたようにそびえ、巨岩が谷間を埋め、水かさを増したアモ河が、ごうごうと流れている。深いその溪谷の街道をはさんで、十戸近く軒を連ねていた。

--「部落はずれに出て木橋を渡り、アモ河の東岸に出ると、河に沿ってなおも溪谷を西南に下って行った。」と記述されており、アモ河東岸に渡る場所はパリー以南ではこの場所しかないため、27°34'31.6"N 89°00'45.7"E ではないかと思われる。

 ↓ 

チョテンガルボー(場所不明 27°31'22.9"N 88°58'28.1"E か?)
--ガオーから十キロ余も下ると西方を走っていた岩山が東方につきだし、狭い道はますます狭くなって、隘路口となっているチョテンガルボーの部落に到着した。部落は隘路口の街道に沿って十二、三戸の人家と二棟の大きな石造りの建物が軒を連ね、西方の山腹には激流ほとばしるアモ河に臨んで、白亜のチベット式建築のチョテンガルボー城がうっそうとした緑樹につつまれ、
と記述されているので、おそらく場所は 27°31'22.9"N 88°58'28.1"E (汝丙岗村 Rǔ bǐng gǎng cūn)のあたりだと思われる。宿泊はしていない様子。

 ↓ 

シャースマ(下司馬鎮 下司马镇 Xià sīmǎ zhèn)27°28'57.8"N 88°54'25.8"E
--わずか四アナー出せば、街の宿に泊まることはできたが、燃料豊富な地帯なうえに、パリーとシャースマでは、厳寒の真冬と初秋とほどの相違があるほど暖かくなってきていたため、練兵場に野宿することになった。

--シャースマの西の街はずれには、パリーの第一関門に続いて第二の関門がある。そこを五百メートルも南に下れば、第三の関門が控えているということを、パリーで聞き知っていたためであった。

シャースマの第2関門27°28'59.2"N 88°54'18.8"E
--街を少し離れた路傍に一軒の小屋があった。両側の山は迫ってきて、街の西方を流れているアモ河も東にカーブして迫り、河には木橋の架かっているのが見えていた。という記述から見るとこの場所かと思われる。

 ↓ 

シャースマの第3関門27°27'56.6"N 88°54'43.6"E
--道は河畔に沿って南に向かい、六十メートルも行くと、ゲツェンの大のぼりが十数本も道側に立てられている十戸余りの部落に入り、さらに進むと、西方の山が河に迫って行く手をふさぎ、天然の城壁となって、その隘路口に朱塗りの大きな門がそびえ、入口の側には牢獄のようながっちりした関所の建物が私達を待っているかのように見えだした。という記述から見るとこの場所かと思われる。

 ↓ 

ビビタン(ピピタン Pipitang, 比比塘 Bǐbǐ táng) 27°26'40.9"N 88°55'27.9"E
--関門をあとにすると、河に迫っている山麓をさらに南に向かった。 五キロも進んで山の鼻を巡ると、その昔シナ軍の駐屯していたところといわれる、ビビタンの部落に到着した。狭い山峡に五、六十戸の人家が密集している部落の中央には小さな廟があって、

 ↓ 

レンチンカン(Rinquingang 下亜東郷 下亚东乡Xià yà dōng xiāng) 27°25'36.4"N 88°55'47.8"E
--行くこと五キロで、ラマ塔下にたどりつくと、有名なチュンビーの溪谷が開け、レンチンカン、一名ヤートン(亜東)と呼ばれる街の入口に到着していた。



ザリーラ(ザリー峠、Jelep La) 27°22'01.6"N 88°51'00.2"E
Jelep La or Jelep Pass (also spelled Jelap)とWikiにあり、また同時期に同地方に潜入していた木村肥佐生(きむらひさお)氏の著作を見るとゼラブ峠(ザリーラ)と記述してあるので、ザリーラはジェレプ・ラ峠で間違いないと思われる。おそらく呼び方の違いではないかと。ただ標高は 4267mで、西川氏の記述である6700mとかけ離れているのが気になるところではある。

↓インド側(シッキム地方)の踏破ルートはまだ調べてません。




カリンポン(Kalimpong)27°03'33.0"N 88°28'05.7"E



ちなみにこのあたりは戦前英国が影響力を持っていたため、英語の情報も多いです。根気よくやれば、かなり情報が掘れると思います。

2017年8月19日土曜日

誰にも邪魔されない至福のひととき

配偶者と養女がバリ島に帰っているので、私は一人ぐらしを楽しんでおります。
一人で何をやっているかというと、昼間は仕事で、何も変わりません。もともとお盆休みなんかありません。夜はゆっくり読書。



数年前に買ったKoboにはこれが入れてある。
秘境西域八年の潜行〈上〉〈中〉〈下〉 西川 一三  (著)
大戦中、日本の密偵としてモンゴル人ラマ僧に化けた著者がモンゴル→青海→チベット→インドを放浪したという「セブン・イヤーズ・イン・チベット」が霞んで見えてしまうレベルの大冒険記。旅とか放浪とかのレベルではなく、あるときはラクダ引きとして雇われながら移動し、見つかれば即刻銃殺というご禁制品(アヘン)を密輸しつつ、チベット巡礼キャラバンに潜り込み2頭のヤクを追いながら無人地帯を縦断、生きるためにインド-チベット間を荷物を担いでヒマラヤ越え交易(タバコの密輸)を数回、ヒマラヤのザリー峠で吹雪で遭難し命を落としかけ、レボン寺(チベット・ラサ)にでのラマ僧修行。イギリス情報機関に利用されたような形で西康省(チベット・カム地方)を身ぐるみ剥がされながら命からがらの踏破調査。チベット仏教シーチェバ派の師につき修行し苦行僧として免許皆伝、托鉢というよりも物乞いをしながらのインド仏教聖地巡礼、ビルマ潜入を目指しながらインドの鉄道建設現場で苦力頭として過ごしているところで日本人ということがバレて、インドの刑務所から日本に送還。小説でもここまですごい人間はなかなかいない。しかもこれは脚色はあるだろうけど実話。とにかく何をするにも命がけの連続という壮絶な記録で、ただただ圧倒されます。今まで何度読んだかわからなけど、何度読み直しても面白いです。
長いけど、読書好きなら絶対読んでも後悔しない、これは私が保証します。

こういう壮絶な冒険記を、平和な場所で静かも音楽を流しながら没頭して読む一人の時間。まさに至福のひとときです。

ちなみに自作臭をプンプン放っているネットラジオの元はこれ


PLANEX IoTインターネットラジオ (画像はAmazonから拝借いたしました)
安い割に結構使えますが、こんなかっこ悪いものを部屋に置きたいか?というのが一番の問題です。



結局分解して、基盤とスクリーンを取り出し、一応バスレフらしき箱を作り、そこら辺に転がっていたFostex FE85Kだったかをくっつけました。
読書のお供はSpace Stationo Soma で決まりです。


2017年8月14日月曜日

時がすぎるのはものすごく早いもの

今年もついこの前に年が明けたと思っていたら、すでにお盆の時期になり、お盆がすぎればもうすぐに正月という、年月の早さを感じずにいられません。

お盆あたりには毎年高校の同級生が集まって飲んだりするのですが、今年もありました。確か42歳のときからやっているから6回目ぐらいではないでしょうか。今年は男ばかり9人の集まりでした。関係ないですけど、私は普段酒を全く飲みませんので、正月以来久しぶりに酒を飲む機会です。



今回はモンゴルレストラン シンキローというところでやったのですが、モンゴル服を着て、お客さんみんなで歌って騒いでというかなり楽しいところでした。隣のグループが若い女の子たちで(俺たち48のおじさん集団)、一緒に記念写真を撮ったりというのが不自然ではなくそういう流れになってしまうという和気あいあいとした雰囲気です。正直、飯は大して美味しいというほどのものではありませんが、こういうのはなかなか楽しいです。50近いおじさんが写真に映るときにピースを出すというのは、もういかがなものかと思いますが、楽しいのでしょうなぁ。私は恥ずかしくてできませんけど。

同級生と話していて、若者から老人になるのはものすごく早いのを実感するという、そんな話をしていました。
というのは、40歳前は世間では若造扱いされることが実際多いですが、50歳をすぎれば初老扱いされ始める。その間たったの10年。要するに40代の10年だけが若造でも老人でもない年頃なわけです。私は残り2年もない。何かものすごく虚しいものを感じ始めました。

しかしこの年頃になると、同級生というのは良いね。女の人は知りませんけど、男の場合、同級生というのは利害関係がないし、お互い見栄を張る必要もない、誰が勝っていようが負けていようが、今の境遇とかそんなの超越して笑って楽しめる。この間柄で境遇の比較などもう何の意味もなさないから誰もしていない。今がどれだけ立派でも、高校のときは大体等しく馬鹿で世間知らずの小僧だった。まあこういうのも一年に一度だから良いんですけどね。

まあ一年に一度だから、よけい年月がすぎる早さを実感する、そういうものかもしれません。